2012年8月18日土曜日

味覚音痴

 くだらない話。

 「味覚音痴」「味音痴」という言葉に引っかかって仕方ないのだ。
 音に対して痴(おこ)であるから「音痴」。では、味覚について痴であるとするなら、そりゃ「味痴」じゃないのか? という、重箱の隅つつき的お話。

 そもそもだ。世界共通の絶対値が、様々な形があるとは言え、キッチリ定められている「音階(musical scale)」、それをうまく捉えられないという意味での「音痴」。それに対して味覚は、よく語られるように、完全に相対的なものだ。「幸せの基準」みたいな話と同じで、人によって、また文化によって全く感性の違うものだから、もとより「味の痴」ってのは、揶揄的に使う言葉としてまずありえないんじゃないか。
 「えっ、この美味さがなんで分かんないの?」なんてのは価値観のなすり付けでしかなく、その差異をもって「味の痴」だと断定するのは、自分のカルトに入信しない人間を勝手に哀れむようなアレな思考と同じなのだ。ってのがまず。

 より深刻な言葉として、「味覚障害」なら分かる。例えば大多数の人が辛いと思うものを甘いと感じるのだとしたら、それは生きて行く上で障害ともなりえるし、言葉として当然存在すべきものだろう。だが「味覚(味)音痴」の存在価値といったらどうだ。

 百歩譲って、どうしても「音痴」という、万人に分かりやすいイメージを持った響きを取り入れて表現したいのなら、せめて意識的に「味覚オンチ」とでもすべきだろう。カタカナ化の持つ安易な記号性を活かすやり方なら、アリなのかも知れない。モヤるケド理解は出来ル。

 さてこんなよく分からない言葉が生まれてしまった背景にあるのが、「味覚音痴」より古くからあったと思われる「運動音痴」という言葉の存在であろうことは、誰でも容易に想像がつく。

 「運動音痴」が生まれた時にも、おそらく多くの人が心の中で「『音痴』関係なくね?」と突っ込んだことだろう。だが共通了解は覆らなかった。運動のウンと痴を繋げて称するには、あまりにも響きが絶望的であり、それで彼らは閉口してしまった。「運」でなくて「動」の痴、と定義すれば…あるいは素直に「運動痴」とでもすれば、嗚呼何の負の遺産も残さずに済んだのにだ。
 ここで「音痴」を看過し、のちに「味覚音痴」なんてねじくれた言葉を生む下地を作ってしまった彼らの罪は根深い。
 いま私が望むのは、一体私は何を言っているのか誰か解説して欲しい、その一点である。

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