2014年1月22日水曜日

 極めてわたくし事で恐縮ですが、自分の中で、記しておかないと(仕事もブログもツイッターも)前に進めないと感じましたので、こちらでまとめさせて頂きます。


 今月6日の深夜、母が永眠しました。70歳でした。

 最後に話したのは正月、僕が帰省していた2日のこと。母の入院先にて。少しばかり元気がなかったものの、数日後に別れることになるなんて、その時は思いもしませんでした。

 母は99年、僕が音楽でデビューして間もない頃に脳梗塞に倒れ、以来、半身麻痺により自力歩行が叶わず、車椅子による不自由な生活を長く強いられて来ました。子宮癌、胃潰瘍、心筋梗塞、不整脈改善のための心臓ペースメーカー手術など、倒れた後でさえあらゆる病に苛まれる、闘病の晩年でした。

 元気な頃から「何が起こっても、それはその人の運命だから」と何事もオープンに捉える考え方の持ち主であった母。自制からか病因からか、客観的に自分の境遇を語ることはあまりなく、嘆いたりすることも稀でしたが、僕に見せてくれていた邪気のない笑顔の裏、心根ではきっと、辛かったことだろうと思います。
 早過ぎる逝去との思いは拭いきれませんが、今は心から、長い間お疲れ様だったねと言ってあげたい気持ちで一杯です。

 優しい母でした。昔から、僕の生活にも進路にも、特別に口を出された記憶がありません。僕がこうしたい、やりたいと思ったことを「あんたなら何をやっても大丈夫だと思うから」といつだって静かに見守り、陰で支援してくれる人でした。

 音楽で上京する時、「三年やってダメだったら帰っておいで」と言われました。こっちはいつでも待ってるから、と。当時の母の本音は分かりませんが、いま思えば、先の知れない世界を志す息子を応援したい反面、無茶をせず近くにいて欲しいと願う親心の複雑な発露だったと理解出来ます。
 
 結果的には、周囲の方々に恵まれたおかげで、僕は今も音楽を続け、東京に所帯さえ持つに至りました。
 昨年来、両親共に(母の生活の介助を任せきりだった父までも)体調を崩したことで、僕は長く故郷で時間を過ごすことになったのですが、病棟で日々を過ごす母を見舞うにつけ、「三年…」の言葉を思い出しました。もしもあの頃、故郷に戻っていたらどうだったんだろう。状況は少しでも違ったろうかと。

 母がしばしば「病院の人達がね、あんたのこと良い息子さんだねってみんな言うんだよ」なんて少し嬉しそうに言ってくれるたびに、胸が痛みました。何が良い息子だ、自分はこれまで、実にやりたいようにやって来て、故郷を離れ自分のことに精一杯だったじゃないか。もっとしてやれることがあっただろうに。自責と悔恨の念が、そのたびジワリと去来したのでした。

 そんな独りよがりな感傷をよそに、最後に会った日、「あんたは親孝行だねぇ」とさえ言ってくれた時には、泣き出しそうになりました。軽口で切り返して堪えたのですが、あの時、泣いてしまえば良かった。ごめんな、ありがとう。その気持ちを、全身で表現してしまえば良かったと、今にして思うのです。もう、遅いけれど。

 まだ院外外出が可能だった頃は、許可をもらい、たびたび二人で出掛けました。二人で花の豊かな公園を歩きました。ドライブをしました。ロープウェーに乗りました。商業施設で買い物をしました。ちょっとしつこいくらいに、日々、昔話をたくさん聞き出しました。それはもう、父と出会う前の恋の話に至るまで。
 自分が大人になってから、あれほど二人きりの時間を濃密に過ごし、語り合ったことはなかったかも知れません。夏にはヒマワリを、秋にはコスモスを眺めながら過ごした亡くなるまえ半年という時間は、僕の中で生涯忘れ得ない、大切な思い出になりました。

 母に何もしてやれなかったという思いはきっと、もうこれからはずっと、残るのだろうと思います。
 僕は不器用者で、せいぜい音楽を作る程度のことしか出来ませんが、これからせめて、向こう側へ行ってしまった母に届くような曲を作りたい、母が向こうで皆に自慢出来るような仕事をしたいと、思いを新たにしている次第です。
 落ち着いたらきっと、母に手向ける曲のひとつも作ろうなんて思っています。

 取り留めのない文章になってしまいました。まとまりを欠いてすみません。

 母の思い出は尽きません。息子にとって、やはり母の存在は特別なものでありました。自分を産んでくれたこと、暖かく見守ってくれたこと、心の底から感謝したい気持ちです。
 ありがとう母さん。全部、ずっと忘れない。



 長文失礼致しました。母が生前お世話になった方、気に掛けて下さった方には、この場を借りて心から御礼申し上げます。ありがとうございました。

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